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VAX & VMSものがたり


第2章 舞台のお膳立て

VAX以前の時代

最初のVAXコンピュータは、DECの20周年祝賀行事の際に発表されました。 Ken Olsen、Harlan Anderson、Stan Olsenによって、 1957年に70,000ドルの初期投資で創立されたこの会社は、ボストンの西50マイルの小さな町、 マサチューセッツ州メイナードに広がった工場群の一隅に小さなモジュールメーカとして始まりました。


プリント基板モジュールからコンピュータへ

DECは当初回路モジュールを製造していましたが、会社の真の目標はコンピュータを 人々に提供することでした。2年目に、DECはコンピュータに移行して、 1959年に最初のコンピュータ、PDP-1を発表しました。 そして、1960年代に、以前のPDPより強力なPDPコンピュータファミリを世に出しました。 早くから、革新性と卓越したエンジリアリングが広く認められ、 その歴史全体を通してこれらがDEC製品の特長でした。


ピアツーピアネットワーキング:分散コンピューティングの誕生

最初のコンピュータはスタンドアロンシステムでしたが、 1970年代の初期にDECは、成功した最初のソフトウェア製品、 DECnetの導入によりピアツーピアのコンピュータネットワーキングの先駆者となりました。 ネットワーキングにより、顧客は多くのミニコンピュータに接続でき、 共通のデータベースを使用することができるようになりました。

コンピューティングへのこの取り組みにより、分散コンピューティングの概念が生まれました。 当時、メインフレームとスタンドアロンのミニコンピュータだけしかなかった中で、 これは全く新しいアプローチでした。

そのときまで、コンピュータは相互にやり取りすることができませんでした。

情報をシステムからシステムに移動するには、 遅い磁気テープとスニーカーによるネットが必要でした。 分散コンピューティングは、柔軟性と接続性のメリットを提供しました。 現在、情報は複数のコンピュータ室でやり取りでき、 その後ほとんど瞬時に国中に通信できますが、 これにより情報を必要とする人々にコンピューティングパワーを 提供するというDECの目標が現実のものになりました。

技術系の顧客は、これらの新しいミニコンピュータの対話性、操作性を歓迎しました。 そして、DECは何万台も販売されるPDPシステムによって繁栄を始めました。

  Fortune誌1986年10月号の表紙 Ken OlsenとDECの特集
Fortune誌1986年10月号の表紙 - Ken OlsenとDECの特集
 

Bill Demmer(前副社長、コンピュータシステムグループ)の話

  「Gordon Bellのビジョンが、VAXファミリ全体を支える主な推進役でした。 そして、VAXの成功は彼のビジョンのお陰であったと思います。」  

愛しの工場

VAXとVMSが開発された環境は、ニューイングランドの伝統と非常によく調和していました。 メイナードの中心部にある煉瓦造りのビル、 「ミル」はニューイングランドの古い二つの伝統を示すものです。 ひとつは、産業の発展と周辺コミュニティの成長に伴う、伝統的な工場街のパターンです。 もうひとつは、ヤンキーの抜け目のない「間に合わせ」主義です。 つまり、持ち物が使える限り、それを捨てたり新しい高価な物を買うのでなく、 それで間に合わせた方が良いというものです。

アサベット川沿いにある工場はかつて、ストウの町の対岸、サドベリーの町の一部でした。 1891年に統合された現在の町は、その開発に最も責任のあった男、 Amory Maynardの名前にちなんでいます。彼は、16歳のときに製材所を始め、 その後カーペットメーカと協力関係に入りました。 そして、1847年に始めた新しい工場の動力とするため、川をせき止め水車用の貯水池を作りました。


時計台

メイナードのDEC本社
有名な時計塔のあるマサチューセッツ州
メイナードのDEC本社
Armory Maynardが1890年に亡くなった後、 彼の息子のLorenzoが父親を記念して有名なミルの時計塔を作りました。 この時計の4面は各直径が9フィートで、塔内の小さなタイマーにより機械的に制御されています。 DECはそのタイマーもベルの機構も電化していません。 このため現在でも、時計を巻くために(タイマーを90回、 時計のハンマーを330回)誰かが週に一度120段登らなければなりません。

1899年、業界の巨人であるAmerican Woolen Companyがアサベットミルを買収して、 ほぼ現在の形にしました。最も大きな部分は、 610フィートの長さで世界の他の織物工場よりも多数の織機を収容したビルディング5でした。

以降50年以上にわたって、アサベットミルは2回の戦争と大恐慌にも生き延びましたが、 平和が戻った1950年に、アサベットミルは完全に閉鎖されました。 ニューイングランドの多くの織物工場と同様に、 南部と外国との競争および合成繊維の利用増加に負けたわけです。


織物からコンピュータへ

1953年に、近郊のウースター出身の10人のビジネスマンがその工場を購入して、 テナントにそのスペースを貸しました。 その手頃な値段で利用できるスペースに惹きつけられた企業のひとつが、Digital Equipment Corporationでした。 そして、1957年にその工場の8,680平方フィートを使用して業務を開始しました。

DECの成長が速かったため、17年の間にミルコンプレックス全体に拡大しそれを購入しました。 内部は、壁の古い塗装が除かれて、本来の煉瓦積みの大きな領域になりました。 大きな梁や柱とは対照的に、パイプは明るい色で塗装されました。 かって織機に使用された大きな内部は、モジュール化された多数の小部屋のオフィスにされました。 そして、会社の変化する要求に柔軟に対応することができました。

DECはビルの外部をほとんど変更せずそのまま残しましたが、 工場の染料プラントからの残留物で汚れていたアサベット川をきれいにしました。

従業員が最初に入ったとき、床はきしみ、羊毛を処理した時代の脂がしみこんでおり、 クレープ底の靴にすぐ滲みてしまいました。

エンジニアはVAXとVMSのアーキテクチャを設計し始めましたが、 床は再仕上中であったため、彼らは床を打ち付ける周囲の音を我慢しなければなりませんでした。 その後、床が磨かれポリウレタン処理が行われました。 床を磨く間、自分たちの机と装置類を毎夜覆うためにエンジニアにはシートが提供されました。 屋根をかえるまでは、雨が降ったときには多量の水が工場に流れました。


当時の業界のトレンド

PDP-11/70 - 16ビットから32ビットコンピューティングへの移行
PDP-11/70 - 16ビットから32ビットコンピューティングへの移行
1970年代中頃の業界のトレンドは、対話型コンピューティングとネットワーキングでした。 多くの企業は、分散コンピューティングがメインフレームによる バッチ環境に対する選択肢であることに気が付いていました。 分散コンピューティングにより、企業は情報を分散化し、 意思決定者が情報にアクセスできるようになりました。 これは、コンピュータのパワーを人々に提供するという、 Ken Olsenの本来の目標に完全に符合した概念でした。

業界全体の技術進歩により、より安くより強力なコンピューティングパワーが 1平方センチあたりに実装できるようになりました。その結果、 コンピュータシステムは小さくより安価になり、 以前はメインフレームでのみ使用できた機能が利用できるようになりました。

DECはますます安価で強力、しかも小型のコンピュータシステムの開発という業界のトレンドを主導しました。

DECはこれらの業界トレンドにより発生したチャンスを生かすツールを開発しました。 即ち、対話型ミニコンピュータ、DECnet、強力でかつ簡単に使用できるソフトウェア、 大量生産、および財務アプリケーションなどです。 しかし、多くの企業は、業界が解決する必要のあったボトルネック、 つまり16ビットのコンピュータアーキテクチャのアドレス限界に拘束されていました。


16ビットを超えて

DECは1974年には、特に科学、エンジニアリング、ビジネス、 データ処理アプリケーションの分野でしばしば必要とされた大規模プログラムの作成や 大容量データの処理などの業務に対して、16ビットのPDPアーキテクチャの限界をすでに認識していました。 そして、将来のコンピューティングニーズを満たすためにより大きなアドレッシング機能と 十分なパワーを持ち、同時にPDPシステムと互換性がある新しいアーキテクチャのニーズが あることに気がついていました。

Terry Shannon(Shannon knows DECの著者)の話

  「DECが行った最も重要なことは恐らく、コンピュータを多くの人々が入手できるようにしたことです。 DECは、ガラス壁の奥で白いローブを着た高位の祭司のようであったコンピュータを、 奥の部屋から外に持ち出すことで、購入しやすくまた受け入れられるものにしました。」  

32ビットコンピューティング: 必然的な次のステップ

一部のユーザも16ビットコンピューティングの制約は問題であると感じ始めていました。 彼らは、大きなプログラムをコンピュータで実行させるためには、 それらを小さなプログラムに分割しなけれならないことに不満を持ちはじめていました。 16ビットアドレスが進歩の障害となっていたので、解決策を見いだすことが重要になりました。 アドレッシングアーキテクチャを32ビットに拡張すれば、 問題の解決に必要となるパワーを提供できます。他のコンピュータメーカも 16ビットアドレスの欠点を認識して、コンピュータ開発の次の必然的なステップと思われた 32ビットシステムを開発し始めました。


次期製品の検討

DECはミニコンピュータ業界における主導権を維持することを目標としていました。 そして、アドレッシングアーキテクチャの拡張が重要であるということを理解していました。 このため、当時のPDPファミリ、DECsystem-10製品ラインの下で採用されていた アドレスの拡張方法を色々検討しました。また、顧客がシステムの強力なパワーやメモリだけではなく、 PDP-11ファミリのプロセッサ、周辺機器、ソフトウェアと互換性のあるより経済的なシステムを 望んでいることを理解していました。

1975年末に、DECはメモリアドレッシングの問題の解決を目指して、 PDP-11ファミリの基本的なアーキテクチャを拡張したPDP-11/70の開発を開始しました。 このPDP-11/70には最大4MBという大きなメモリ容量がありましたが、 16ビットのPDP-11ソフトウェアでそれを使用するのは負担でした。 開発チームには、PDP-11ファミリのアーキテクチャを強引に拡張するか、 新しいアーキテクチャを開発するかの選択肢がありました。

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