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PDP1からバイトマシンへの移行


プロローグ

  ここはどこなんだろう? 古ぼけた壁、でたらめに繋ぎ合わされた床や階段。見覚えがあるなと思いながら先へ進んだ。
するとぽつんと明かりがついた部屋からメロディがなんともぎこちない音で聞こえてくる。

「Are you going to Scarborough Fair...」

これはサイモンとガーファンクルの歌じゃないか。それにしても幻滅だな、もう少しうまくハミングしてくれよなと思いながら部屋を覗いた。

すると、かのLINC8(おもに研究所で使われたミニコン)が薄暗い部屋の中でオペレータパネルのランプを意味ありげに点滅させながら歌ってるじゃないか、と突然中から大男が現れ、

「ウェルカム、アイビンルキンフォワードゥミーティンユー(あいたかったよ)」

あまりの大きさと、毛むくじゃらな手がのびて握手を求めたので、なんだこれはスターウォーズのチューバッカかと驚いていると、

「DECの新しいコンピュータについてアーキテクチャはどうするか話をしたい」

これについては僕もよく知ってるのでなんとか話ができそうだ。また今まで疑問に思っていたことなどを聞き出すチャンスではないかと思い、つたない英語で、

「アイウッナッハヴミスジスゲットゥゲタフォーザワールドゥ、コーゥミ、カツオ(このような集まりに招いてもらい光栄だよ)」

そう、そこにいた人達はあのDEC伝説の人、ケン・オルセン(例の大男)、ゴードン・ベル、エドソン・デカストロなどのそうそうたるメンバーばかりではないか

 

ケン・オルセン
(以下ケン)
「DECは今非常な外圧にさらされているんだ。OEMメーカーが『IBMや他のメーカはバイトマシンを出しているのに、DECは12ビットのPDP8シリーズなどのワードマシンだけではないか、もっと高性能な、しかもバイトマシンを出してもらわないとDECのマシンでは商売ができん』と言ってきておるんだ」
勝男 「そうなんですか。なるほど。で、どのあたりまで話が進んでるんですか?」
ケン 「エドが自分の案が一番いいといって譲らないんだよ」

というような会話が延々と続き、その結果エドの案は一時棚上げされ、他の可能性を探ることになった。

ケン 「我々も素晴らしいマシンを出さんとつぶれてしまう」
勝男 「僕も他の案を検討したほうがいいんでは」

と言ってこの場は終わりましたが、この後エドはDECを去りデータジェネラルを興し名機NOVAを出すことになろうとは、私(勝男)以外には知るよしもなかったのです。

それから数日してケンと昼食を共にしたのでいろいろ聞いてみようと思いました。

勝男 「ケン、あなたの理想とするコンピュータを作る意味合いからもコンピュータのコの字くらいは、DEC(Digital Equipment Corporation)という社名のどこかに入っていてもいいのではと思うんですが、なぜ『ディジタル(Digital)機器(Equipment)』なんですか?」
ケン 「勝男、よく聞いてくれたね。実は我々が会社を興そうとした時はIBMがめちゃくちゃ強くって、それ以外のメーカーは青息吐息さ。そこでもってコンピュータなんかやるっていうとどこも金を出さないし、取り引きさえ危ないんだ。

そこでね、最初はMITのWHIRLWINDプロジェクトで培った技術をもとに、ディジタル回路を基板に組み込んだ、『ディジタルモジュール』を作ることにしたんだ。それでコンピュータもディジタル系だし、じゃー、ディジタル機器でいこうということでDECになったんだよ」

勝男は、ケンにその頃の技術背景についても聞いてみた。

ケン

「そうだな、1952年にIBMが世界初の商用コンピュータ701なんてものを出し、そのメモリ素子が静電記憶管なんてものを使っていたんだ。それとほぼ同時期に私もかかわったWHIRLWINDの記憶装置としてコアメモリが開発されたんだよ。それは非常に小型で故障も少なく、それからしばらくコアメモリが全盛となったんだ。

コアメモリはドーナツのような形で、大きさは2〜3ミリメートル位かな、我々がPDP1を作った1960年には1ミリメートル位まで小さいのが出てきて、アクセススピードは2〜3マイクロ秒だったな。いやー、素晴らしく速かったよ」

勝男はWHIRLWINDについてもどんなものか聞いてみた。

ケン

「WHIRLWINDは私も参加したコンピュータのプロジェクトでMIT(マサチューセッツ工科大学)で1945年に開発を始め、その名の通り『旋風』をまき起こそうという意味あいがあったんだ。

真空管2800本を用いたプログラム内蔵式のプロトタイプが1950年に完成して、その後3年を経て真空管5000本、ダイオード約10000本、コアメモリを使用、1ワードは16ビット、そして大きさはENIACよりもずっと小型で縦横15メートル、高さ6メートルの完成品ができたんだ。

その時我々は、近い将来もっと小型のシステムが出現するのではという期待をもったんだ。これに使われたコアメモリのテスト用コンピュータMTC(メモリテストコンピュータ)の開発リーダーが私だったんだよ。

1950年代から60年代にかけてはIBMに代表されるようにコンピュータはどんどん大型になるし、また空調の施された専用の巨大なコンピュータ室に設置し使用されて、CPU、記憶装置、そして入出力を専門に行うミニコンピュータ以上の大きさと性能を持つチャネルと呼ばれる装置を持っていたんだ。

価格はなんと100万ドル以上もしたんだ。でも私はそんなあり方に疑問をもって、『コンピュータはもっと身近な道具でなければならない』と思い、わずか4名でDECを作ったんだ」

勝男 「ケン、100万ドルって約1億円じゃないか。大型だからそんなに高いとは思わないけど」
ケン

「何言ってるんだよ勝男、そのころは1ドル=360円だから3億6千万円じゃないか」

勝男 「あーそうだった勘違いしてたよ」
ケン

「1960年になると、ディジタルモジュールで身につけた技術をもとに、PDP1という世界で最初の18ビットのミニコンピュータを出したんだ」

勝男 「ケン、疑問に思ってたんだがPDPってどういう意味? それに、なぜ18ビットなの? なぜ8の倍数ではなく6の倍数を基準としたミニコンでなければならなかったの?」
ケン

「よく聞いてくれたね。まずPDPとはProgrammed Data Processorのことで読んで字のごとく。次の質問だが、その当時必要とされていたデータは6ビットでいろいろな文字コードや制御コードを表現していたんだよ。標準規格で名高いISO、JISのように将来の拡張性などを考慮して8ビットコードが定義されたのは後のことで、実験機器、A-Dコンバータなどは精度が低く6ビットあればよかったんだ。

それで、3ビットの整数倍のほうが扱いが簡単だということで、DECでは8進数を用いようと決めたんだ。勝男は数字を数える時に16進で0、1、2、。。。9、A、B、C、D、E、Fなんてやるか? デバッグする時なんて面倒なだけだよ。例えば1F35とAFDEの足し算なんて考えただけでもぞっとするね。

それにデータを保存するためのオープンリールタイプの磁気テープも6ビット単位で記録したものがあったんだ。それで1ワードに6の整数倍のデータを保存できれば効率がいいじゃないかということなんだよ。

それにMITが当時TX0というコンピュータの開発を行い、そのプロジェクトで最初に開発されたコンピュータが18ビットだったんだ。そこでそれを手本としてDECではまず18ビットのコンピュータを製造したのさ。

一度作ってユーザーがいいと思えば6の倍数でも不便を感じなくなっていて、DECのコンピュータは大学や研究所に受け入れられたんだ。

そしてたくさんのソフトウェアがユーザーにより開発されたんだ。1961年にユーザーの集まりであるDECUS(Digital Equipment User’s Society)が発足したんだよ。

しかしだな、最近はバイト、バイトってうるさくて困ってるよ。」

勝男 「じゃー、ケン、今までどんなPDPを作ってきたの? 系統だてて教えてくれない?」
ケン

「それは簡単だよ、私は今まで作ってきたコンピュータを表にしてまとめてあるから、それを見よう(表1)」


表1:PDPシリーズの変遷

語長

システム名

12ビット PDP-5(1963年)、リアルタイム、制御用として使用された。
PDP-8(1965年)、スピード1.5マイクロセコンド、4Kワードコアメモリ(最大32Kワード)、 1.8万ドル、DECの礎を築いた。このシステムからミニコンと呼ばれるようになった。
LINC8(Labratory Instrument Computer)(1966年)は1962年MITで開発されたLINCをモデルとして開発され、生物や工学の分野で利用された。
A-Dコンバータやスピ-カ、コンパクトなOSを装備し、簡単に実験データを取り込めた。 デモでサイモン&ガーファンクルなどいろいろなジャンルの洋楽を奉でた。 このシステムは、PDP-8とLINCシステムとを単純に一つのシステムにまとめ、命令によりどちらのシステムモードを使用するかを切り替えた。
PDP-12(1969年)、LINC8をIC技術を用いて効果的にかつコンパクトに仕上げたシステム。
PDP-8E(1970年)、それまでの8シリーズをIC、LSIを用いて非常にコンパクトにまとめ卜げたシステム。OMNIBUSと いうどのスロットにモジュールを入れても動作する特色あるバスを採用し。
8ビット PDP-1(1960年)、スピード5マイクロセコンド、4Kワードコアメモリ、 タイプライター、ペーパーテープ、12万ドル。
PDP-4(1963年)、PDP-7(1964年)
PDP-9(1966年)、PDP-15(1969年)、CADで有名
36ビット PDP-6(1964年)、0.25MIPS、約12〜30万ドル
PDP-10(1971年)、大型のシステムで約2億円ほどした。 その後DECsystem10/20となり、世界中の人工知能研究の分野、 第5世代コンピュータ開発などで用いられた。

勝男 「ケン、PDP2、PDP3が抜けてるじゃないか」
ケン

「それは開発したんだけど製品化されなかったんだよ。PDP2は24ビット、PDP3は36ビットだった」

勝男 「当時のコンピュータはどんな手順で設計/製造されたの?」
ケン

「そうだね、PDP1のころは縦20センチ、横10センチのボードにトランジスタ、ダイオード、抵抗、キャパシタ(コンデンサ)などを組み合わせて、なんと1個か2個のフリップフロップやAND/OR/NOT回路などを構成したんだよ。

ディジタルモジュールの外観
ディジタルモジュールの外観

そしてこれらのボードを数百枚から数千枚組み合わせてバックプレーンと呼ばれるスロットに差し込み、その背面部分を人が配線図を基に細い線でつなぎシステムを作ったんだ。

バックプレーン

PDP-8のスロット
PDP-8のスロット
PDP-15のスロット
PDP-15のスロット
PDP-15ではディジタルモジュールを
内側から装着する
スロットとディジタルモジュールの接合部
スロットとディジタルモジュールの接合部
PDP-15のバックプレーン 上の写真の反対側
PDP-15のバックプレーン
上の写真の反対側
バックプレーンのようす 上の写真の反対側
バックプレーンのようす
上の写真の反対側
上の写真の拡大 1本1本線が巻き付けられている
上の写真の拡大
1本1本線が巻き付けられている

ところで勝男は論理値の0/1は0/3(ボルト)に対応すると教わったと思うが、これら初期の回路はネガティブロジックとよばれる方式を採用していて、0ボルトとマイナス3ボルトで論理値の0、1を代表させていたんだ。

ミニコンはユーザーがデバイスを簡単に接続できるという特徴をもっていて、初期の頃から入出力用にインターフェイスを提供したんだ。

すなわちその頃は、システムの心臓部であるメモリアドレス、メモリデータ、I/Oタイミングなどの信号をユーザーに開放したんだ」

勝男 「大胆だなあ。これではユーザが設計ミスをしたらシステムまでもが壊れるじゃないか」
ケン

「すべてはユーザーのおぼしめしだよ(笑)」

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